当時、群馬の高校生だった私は、足利県道を東に向かって自転車を走らせていた。そう、それは、たった1つの目的、大場久美子さんを一目見るためだ。
群馬に住んでいた私にとって、当時、絶大な人気を得ていた大場久美子さんを見ることは、こんな田舎にあっては滅多にあることでは無いし、この機会を逃したら、もう逢えないだろうという確信というより絶望感もあった。
だから、自転車を東に走らせていた。時間は無い。足利市民会館まで気を抜くことなく平均速度20kmを保って早く見たい逢いたい一心でなんとか、開始前に滑り込んだのだ。
当時、大場久美子さんは、独身だった皇太子さまも一目惚れするほどの可愛らしさを誇っていた。また、ドラマ「コメット」さんも大ヒット。魔法のバトンを回す姿にさらに萌え萌え度はピークに向かっていくのだ。
この足利市民会館のラジオ公開録音でも、この可愛らしい、黄色のミニスカート姿で登場した。司会者は誰だったか忘れてしまったが、それよりも、大場久美子さんに逢うのがが最大の目的だったのだ。でも、悲しいかな、この写真を撮った1978年9月15日は、高校生である私には、満足なカメラは無い。単焦点の固定絞り・シャッターのカメラで撮ったこの写真は遠すぎて顔はわからなくても、ブロマイドには無い新鮮な風を感じたのだ。つまり、この不鮮明な大場久美子さんの写真から、私のアイドル生写真撮影生活が始まったのだ。ここにこの20世紀アイドル写真館の原点がある。
さて、大場久美子さんは、1977年6月5日に「あこがれ」でデビュー。デビューからまもないシングルの曲は2分台の短さが特徴的でもある。
特に3枚目シングルの「大人になれば」はチョコレートにCMソングにもなったので、アラフィフ世代には、耳に残っていることだろう。
そして、1978年8月20には、あのコメットさんの主題歌にもなった「キラキラ星あげる」が発売される。
このラジオの公開録音はそんな人気の絶頂期にあって、最大のチャンスをものにすべく逢いにいったわけなのだ。
顔はぼやけても、衣裳と振り付け、その姿は、今のアイドルとまったく遜色ない、いやむしろ、この時代の方がより可愛らしく感じるほどだ。大場久美子さんは当時18歳。私にとって、年上のお姉さん的存在のアイドルとして、このラジオの公開録音というステージは、いやおうにもハイな気分にさせてくれる。そう、久美子さんの歌声に載せて、自分の応援を吹き込む絶好のチャンス到来だ。
「く~~~みぃ~こぉ~~~!!!!」
ありったけの応援の声を上げた。隣の奴がうるさくて耳を塞ごうが、一向におかまい無しだ。
高校の同級生が、「大場久美子の歌はオンチで聞いてられない」だの「あんな歌のレコードを買う奴は恥ずかしくて再生できるのか」など、酷い言われようだが、そんなことは私にとっては応援してくれているに過ぎないと受け止めていた。
「歌手は歌がうまくなくてはいけない」という暗黙の了解はあったけど、「アイドルは歌がうまくなくても可愛ければ良い」という新しいジャンルを開拓した大場久美子さんには、後につづくヘタウマアイドルにどれだけの勇気を与えたことか計り知れない。いままで可愛くても、歌で落とされてデビューできなかったアイドルなり損ないの方々の分のうらみまでも、これで晴らしたことだろう。
でも、私は、当時の物価としては決して安くないシングルEPレコード1枚あたり500~600円、LPレコード1枚あたり2500~2800円をすべて揃え、家にかえれば、毎日聴いていた頃が懐かしい。
2010年になっても、相変わらず大場久美子さんは可愛い。当時、ちょっかいを出していた某男性アイドルの暴露番組など、最近TV番組をにぎわせているが、それでも、ずっと頑張っている大場久美子さんを見ると自分も活力が沸いてくる。
長い人生、いろんな事がある。時には絶望感に打ちひしがれることもあるだろう。でも、それは、人生のただの通過点だ。その時に感情で自暴自棄になってはいけない。
こうして、過去を振り返って懐かしむ、今も頑張っているアイドルを見て、自分も頑張ろうと思う。
この写真館を始めて、多くの人に私の作品も見てもらえるし、アイドルの懐かしい笑顔も見てもらえる。そして見た人もハッピーになれる。
そんな役割を、この写真館が担っているとするならば、私はあの時に死ななくて良かったと今はこのブログに感謝する毎日だ。
↓部屋を片づけていたら、こんなシールを発見! 上の写真では大場久美子さんの顔がわからないので、シールを引用させていただきます。
右下の空間は、唯一使ってしまった写真。私の一番のお気に入りでした。
この似てないイラストはどうにかならないものか。普通のアイドルなら、イラストの方がかわいいが、これはどう見ても、本物の久美子ちゃんの方がかわいい。当時の250円って、結構高価なものだし、このシールは現存している数が少ないので、かなりのプレミアが付いているかな?
群馬に住んでいた私にとって、当時、絶大な人気を得ていた大場久美子さんを見ることは、こんな田舎にあっては滅多にあることでは無いし、この機会を逃したら、もう逢えないだろうという確信というより絶望感もあった。
だから、自転車を東に走らせていた。時間は無い。足利市民会館まで気を抜くことなく平均速度20kmを保って早く見たい逢いたい一心でなんとか、開始前に滑り込んだのだ。
当時、大場久美子さんは、独身だった皇太子さまも一目惚れするほどの可愛らしさを誇っていた。また、ドラマ「コメット」さんも大ヒット。魔法のバトンを回す姿にさらに萌え萌え度はピークに向かっていくのだ。
この足利市民会館のラジオ公開録音でも、この可愛らしい、黄色のミニスカート姿で登場した。司会者は誰だったか忘れてしまったが、それよりも、大場久美子さんに逢うのがが最大の目的だったのだ。でも、悲しいかな、この写真を撮った1978年9月15日は、高校生である私には、満足なカメラは無い。単焦点の固定絞り・シャッターのカメラで撮ったこの写真は遠すぎて顔はわからなくても、ブロマイドには無い新鮮な風を感じたのだ。つまり、この不鮮明な大場久美子さんの写真から、私のアイドル生写真撮影生活が始まったのだ。ここにこの20世紀アイドル写真館の原点がある。
さて、大場久美子さんは、1977年6月5日に「あこがれ」でデビュー。デビューからまもないシングルの曲は2分台の短さが特徴的でもある。
特に3枚目シングルの「大人になれば」はチョコレートにCMソングにもなったので、アラフィフ世代には、耳に残っていることだろう。
そして、1978年8月20には、あのコメットさんの主題歌にもなった「キラキラ星あげる」が発売される。
このラジオの公開録音はそんな人気の絶頂期にあって、最大のチャンスをものにすべく逢いにいったわけなのだ。
顔はぼやけても、衣裳と振り付け、その姿は、今のアイドルとまったく遜色ない、いやむしろ、この時代の方がより可愛らしく感じるほどだ。大場久美子さんは当時18歳。私にとって、年上のお姉さん的存在のアイドルとして、このラジオの公開録音というステージは、いやおうにもハイな気分にさせてくれる。そう、久美子さんの歌声に載せて、自分の応援を吹き込む絶好のチャンス到来だ。
「く~~~みぃ~こぉ~~~!!!!」
ありったけの応援の声を上げた。隣の奴がうるさくて耳を塞ごうが、一向におかまい無しだ。
高校の同級生が、「大場久美子の歌はオンチで聞いてられない」だの「あんな歌のレコードを買う奴は恥ずかしくて再生できるのか」など、酷い言われようだが、そんなことは私にとっては応援してくれているに過ぎないと受け止めていた。
「歌手は歌がうまくなくてはいけない」という暗黙の了解はあったけど、「アイドルは歌がうまくなくても可愛ければ良い」という新しいジャンルを開拓した大場久美子さんには、後につづくヘタウマアイドルにどれだけの勇気を与えたことか計り知れない。いままで可愛くても、歌で落とされてデビューできなかったアイドルなり損ないの方々の分のうらみまでも、これで晴らしたことだろう。
でも、私は、当時の物価としては決して安くないシングルEPレコード1枚あたり500~600円、LPレコード1枚あたり2500~2800円をすべて揃え、家にかえれば、毎日聴いていた頃が懐かしい。
2010年になっても、相変わらず大場久美子さんは可愛い。当時、ちょっかいを出していた某男性アイドルの暴露番組など、最近TV番組をにぎわせているが、それでも、ずっと頑張っている大場久美子さんを見ると自分も活力が沸いてくる。
長い人生、いろんな事がある。時には絶望感に打ちひしがれることもあるだろう。でも、それは、人生のただの通過点だ。その時に感情で自暴自棄になってはいけない。
こうして、過去を振り返って懐かしむ、今も頑張っているアイドルを見て、自分も頑張ろうと思う。
この写真館を始めて、多くの人に私の作品も見てもらえるし、アイドルの懐かしい笑顔も見てもらえる。そして見た人もハッピーになれる。
そんな役割を、この写真館が担っているとするならば、私はあの時に死ななくて良かったと今はこのブログに感謝する毎日だ。
↓部屋を片づけていたら、こんなシールを発見! 上の写真では大場久美子さんの顔がわからないので、シールを引用させていただきます。
右下の空間は、唯一使ってしまった写真。私の一番のお気に入りでした。
この似てないイラストはどうにかならないものか。普通のアイドルなら、イラストの方がかわいいが、これはどう見ても、本物の久美子ちゃんの方がかわいい。当時の250円って、結構高価なものだし、このシールは現存している数が少ないので、かなりのプレミアが付いているかな?